皮膚とインクの形而上学 ~背徳の希少本修復師と死にゆく貴族の淫らな契約~

皮膚とインクの形而上学 ~背徳の希少本修復師と死にゆく貴族の淫らな契約~

last updateLast Updated : 2025-12-20
By:  佐薙真琴Ongoing
Language: Japanese
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フランス・ロワールの森奥深くに佇む「影の城」。 古書修復師の透子が依頼されたのは、サド侯爵の祈祷書の修復と――城主アラン・ド・ヴァルモンによる「夜の教育」だった。 「この本を直すには、君の理性を解体し、感覚を剥き出しにする必要がある」 冷徹な美貌を持つアランは、透子に衣服の制限を課し、痛みと快楽の境界を曖昧にしていく。それは修復作業(ルリユール)の工程そのものだった。 解体される理性。洗浄される過去。そして刻印される愛。 だが、透子は気づいてしまう。完璧な支配者である彼の肉体が、密かに崩壊しつつあることを。

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Chapter 1

第一章 カルトンの牢獄

 世界は、分厚い雨の膜に包まれていた。

 フランス・ロワール地方の深い森。昼下がりだというのに、空は古い羊皮紙のように黄ばんでくすんでいる。

 相沢透子あいざわとうこを乗せた黒塗りのセダンは、鬱蒼とした木々のトンネルを、まるで巨大な獣の食道へと滑り落ちていく異物のように、音もなく進んでいた。

 窓ガラスを無数の雨粒が叩く。その一つ一つが、透子には世界から拒絶される打音のようにも、あるいは内側へ閉じ込めようとする檻の格子のようにも感じられた。

 ガラスに映る二十八歳の自分の顔。

 黒髪は一本の乱れもなくひっつめられ、銀縁の眼鏡の奥には、感情を凍結させたような理知的な瞳がある。古書修復師ルリユール。パリのマレ地区に工房を構え、業界では「氷の針」とあだ名されるほどの精密さと冷徹さで知られる女。

 それが、相沢透子という女の表紙だった。

 だが、装丁の下にある本文が、どのようなインクで書かれているかを知る者はいない。白衣の下で脈打つ皮膚が、常に満たされない渇きに震え、誰かに乱暴にページを捲られる瞬間を待ちわびていることを、彼女自身ですら認めることを恐れていた。

「到着いたしました、マドモアゼル・アイザワ」

 運転席の老人が、抑揚のない声で告げた。

 ワイパーが雨を拭うたび、視界の先にその異形が浮かび上がった。

影の城シャトー・ド・オンブル」。

 地図にも載らないその古城は、湿った森の深奥に、墓標のように、あるいは巨大な男根のように聳え立っていた。苔生した石壁は黒ずみ、何世紀もの間、風雨と、そして城の中で繰り広げられたであろう無数の秘密を吸い込み続けてきたかのような、重苦しい威圧感を放っている。

 透子は重い革の鞄を手に、車を降りた。

 湿った空気が、不躾に肺を満たす。

 それは、ただの雨の匂いではない。腐葉土の甘い腐敗臭、濡れた石の冷気、そして微かに漂う鉄錆の匂い。さらに、どこからともなく流れてくる濃厚な百合の香りが、鼻腔の粘膜をねっとりと撫でた。

 聖なる花でありながら、その極限において腐臭にも似たエロスを放つ百合の香り。その芳香だけで、透子の下腹部に微かな熱が灯った。

 重厚なオークの扉が、油の切れた蝶番の悲鳴を上げて開く。

 エントランスホールは、時間の止まった空間だった。

 床は黒と白の大理石で市松模様を描き、高い天井からは巨大なシャンデリアが、獲物を待つ蜘蛛の巣のようにぶら下がっている。

「お待ちしておりました。あるじは図書室におります」

 影のように音もなく現れた執事が、恭しく頭を下げた。

 案内された長い廊下。壁には歴代当主とおぼしき肖像画が並んでいるが、どれもニスが黒変し、瞳の部分が暗く沈んでいて視線を感じない。

 カツ、カツ、カツ……。

 透子のヒールの音だけが、静寂という張り詰めた皮膚に爪を立てるように、鋭く響いた。

 歩を進めるたびに、透子の理性が警鐘を鳴らす。

 引き返すべきだ。ここは、堅実な職人が足を踏み入れていい場所ではない。

 だが、彼女の本能は、その警告をあざ笑うかのように、子宮の奥をきゅっと締め付け、蜜を分泌し始めていた。

 通された図書室は、透子がこれまでに見たどの図書館よりも圧倒的で、そして背徳的だった。

 四方の壁を天井まで埋め尽くす書架。そこには、数千、いや数万冊の革装本が眠っている。

 古い紙の匂い。獣の皮をなめした革の匂い。にかわを煮た時の独特の獣臭。

 それらが混じり合い、まるで部屋全体が一つの巨大な有機体であるかのような錯覚を覚える。

 部屋の中央、黒檀の巨大なデスクの奥に、その男はいた。

 窓からの灰色の薄明かりを背負い、逆光の中に沈むシルエット。

「ようこそ、遠い東の国から来た魔法使いソルシエール

 男が立ち上がり、ゆっくりと近づいてくる。

 声。

 それは聴覚を刺激する空気の振動というよりは、直接骨伝導で脳幹を愛撫するような、低く、湿度を含んだバリトンだった。

 アラン・ド・ヴァルモン。この城の主であり、欧州の裏経済を動かす投資家とも、稀代のサディストとも噂される男。

 近づくにつれ、彼のかおが露わになる。

 彫像のように整った美貌。だが、その肌は病的なまでに蒼白で、血管が青く透けて見えるほど薄い。色素の薄い灰色の瞳は、ガラス玉のように冷徹でありながら、その奥底に狂気じみた熱量を秘めている。

 彼は透子の前に立ち止まると、値踏みするように視線を走らせた。

 その視線は物理的な圧力を伴っていた。透子の着ているツイードのジャケットを通り越し、ブラウスを溶かし、その下のレースの下着、そして強張りながらも熱を帯び始めている素肌までをも、視線だけで剥ぎ取っていく。

「魔法使いではありません。私はただの職人です、ムッシュ・ヴァルモン」

 透子は震えそうになる喉を叱咤し、努めて事務的な声を出して名刺を差し出した。

 だが、アランはその紙切れを受け取ろうとはしなかった。

 代わりに、彼の手が伸び、透子の指先を――まだ名刺をつまんでいる指を、そっと包み込んだ。

 氷のように冷たい手だった。

 ぞくり、と背筋に電流が走る。冷たさが、逆に火傷のような熱となって神経を焼き切る。

「美しい指だ」

 彼は透子の指を一本一本、愛でるように、あるいは検品するように撫でた。

「糊と革と、メスを扱う指……。常に傷つき、薬品に荒れ、それでもなお再生を繰り返す職人の指。君の評判は聞いているよ。どんなに損なわれた本も、君の手にかかれば処女のように蘇ると」

 アランは透子の親指の腹を、自らの親指で強く擦った。指紋の溝に食い込むような感触。

「だが、君自身はどうなのかな? 他者の傷を癒やすその手で、自分自身の空虚を埋めることはできているのか?」

「……仕事の話をさせていただけますか」

 透子は反射的に手を引こうとしたが、アランの力は意外なほど強く、逃れることはできなかった。捕食者が獲物を押さえ込むような、絶対的な力。

「焦ることはない。時間は十分にある。……そう、永遠のように長い夜がね」

 彼は意味深長に微笑むと、ようやく透子の手を離した。

 解放された指先が、喪失感に痺れていた。

「ご依頼の品を見せてください」

 透子は平静を装い、話題を変えた。

 アランはデスクの上にあった一冊の本を手に取り、透子に差し出した。

 それは、見るも無惨な状態だった。

 十八世紀のものと思われる総革装。だが、表紙の革はひび割れてめくれ上がり、背表紙は砕け、ページは湿気とカビで癒着して一塊の石のようになっている。

 まるで、激しい拷問を受けて息絶えた肉体のようだった。

「マルキ・ド・サドの未発表手稿を含む、特注の祈祷書だ」

 アランが囁く。

「かつて、ある修道女が隠し持っていたものだと言われている。昼は神に祈り、夜はその祈りの言葉で自らを慰め、冒涜的な悦楽に耽った……。信仰と背徳が、一冊の中で交尾している本だ」

 透子は白い手袋をはめ、慎重に本に触れた。

 専門家としての目が、瞬時に損傷レベルを分析する。支持体シュポールの劣化は深刻だ。だが、修復は不可能ではない。

 しかし、本に触れた瞬間、指先から奇妙な感覚が伝わってきた。紙や革の感触を超えた、何かもっと生々しい、人の皮膚のような温もりと怨念。

「……これを直せと?」

「そうだ。かつての美しさと、淫らさを取り戻させてほしい」

「三ヶ月。それだけの期間が必要です」

「構わない。ただし、条件がある」

 アランがデスクの引き出しから、一枚の書類を取り出した。羊皮紙のような質感の紙に、優雅な筆記体で綴られた契約書。

「この本の修復には、特殊な環境が必要だ。移動による振動や湿度の変化は命取りになる。したがって、作業はこの城の地下にあるアトリエで行うこと」

「それは構いませんが……」

「まだだ。君もまた、この城の一部となってもらう」

 アランが契約書を指で弾いた。パンッ、という乾いた音が、透子の心臓を跳ねさせた。

「期間中、城からの外出は一切禁ずる。外部との通信も、私が許可したものに限る。そして――」

 彼はデスクを回り込み、透子の背後へと回った。

 気配が、首筋に迫る。

 微かに香る、サンダルウッドと麝香ムスク、そして消毒液のような冷たい香り。

「私の提示する『生活規律』を遵守すること。これには、食事、睡眠、そして衣服に関する指定も含まれる。私の許可なく、その肌を隠すことは許されない場合もあるだろう」

 透子は眉をひそめて振り返った。

「衣服の指定? それは、職務とは無関係な要求です。私は修復師としてここに来たのであって、あなたの愛人やメイドになるためではありません」

「無関係ではない」

 アランの手が伸び、透子の眼鏡をゆっくりと外した。

 視界がぼやけ、アランの顔が揺らぐ。その不安感につけ込むように、彼の手が透子の頬に触れた。

「この本は、人間の皮膚で装丁されているという説がある。これを直す者は、自らの感覚を極限まで研ぎ澄ませなければならない。君の論理で固められた理性の殻を剥がし、生身の神経を露出させる必要があるのだ」

 狂っている。

 透子の頭の中で、冷静な部分が警報を鳴らし続けていた。これは明らかなハラスメントであり、異常な契約だ。即座に荷物をまとめて立ち去るべきだ。

 だが、透子の足は床に縫い付けられたように動かなかった。

 アランの言う「理性の殻を剥がす」という言葉が、呪文のように内側に響いていた。

 ――剥がしてほしい。

 誰にも見せたことのない、いや、自分ですら直視してこなかった内側のドロドロとした欲望を、この男なら暴いてくれるかもしれない。

 その期待が、恐怖と同じ分量で、いや、それ以上の質量を持って透子を支配し始めていた。

 アランは胸ポケットから万年筆を取り出し、キャップを外して透子の唇に押し当てた。

 硬いペン先が、柔らかい唇を割り入る。

 鉄の味。インクの苦み。

「サインを。それとも、逃げ帰るか? 安全で退屈な、紙屑のような日常へ。誰も君の本当の中身を読もうとはしない、孤独な世界へ」

 透子は震える手で万年筆を受け取った。

 その軸は黒く艶めき、ずしりと重かった。それはまるで男根のメタファーのようであり、同時に権力の象徴でもあった。

 彼女は契約書に視線を落とした。そこには目が眩むような報酬額が記されている。だが、今の彼女にとって、金など紙切れ同然だった。

 彼女が求めていたのは、この「檻」だった。

 自分を縛り付け、責任という重荷から解放し、ただ感覚だけの存在へと堕としてくれる、甘美な地獄。

 ペン先が紙を走る。

 サラサラと音を立てて、透子の名前が刻まれていく。インクが紙の繊維に染み込んでいく様は、まるで白いシーツに散った処女の血痕のようだった。

「……契約、成立だ」

 アランが口元を歪めた。

 それは慈愛に満ちた微笑みというよりは、罠にかかった獲物を愛でる捕食者の、残酷な安堵に似ていた。

 彼は透子の手から万年筆を抜き取ると、彼女の耳元に唇を寄せた。

「ようこそ、私の実験室へ。透子」

 名前を呼ばれた瞬間、透子の世界は閉じた。

 いや、開かれたのだ。

 重厚な扉が閉ざされる音とともに、理性という名の安全装置が外され、深い闇への落下が始まった。

 窓の外では、雨が激しさを増していた。

 その雨音は、もう拒絶の音ではなかった。これから始まる秘密の儀式を、外界から隠蔽するためのカーテンの音だった。

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第一章 カルトンの牢獄
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第六章 偽りの真実
 エントランスホールを埋め尽くしていた数百本の百合が撤去されてから、三日が過ぎた。 城の空気は浄化されたはずだった。あのむせ返るような腐敗臭とインドールの毒気は、業務用の強力なオゾン脱臭機と、執事たちが撒いたミントの洗浄液によって完全に拭い去られた。 だが、透子にはわかっていた。 匂いが消えた分だけ、城の静寂は以前よりも鋭く、そして冷たく研ぎ澄まされていることを。それは、嵐の前の気圧低下が鼓膜を圧迫するように、皮膚の毛穴一つ一つを収縮させるような不穏な静けさだった。 アランは変わった。 いや、正確には「以前よりも完璧で、残酷な支配者」へと、自らを再構築した。 あの朝、百合の山の中で見せた幼児のような脆さを、彼はなかったことにしようとしていた。その記憶を透子の脳内から削除するかのように、彼はおぞましいほど冷徹な仮面を被り直したのだ。「遅い。繊維の方向が揃っていない」 地下アトリエの冷たい空気を、アランの叱責が切り裂く。 彼は部屋の隅にある革張りの安楽椅子に深く腰掛け、アンティークのバカラグラスを片手に透子の作業を監視していた。 その顔色は、高級なボーンチャイナのように白く硬質で、表情筋一つ動かない。灰色の瞳は、透子という人間を見ているのではなく、機能する機械部品の動作確認をしているような無機質さを湛えていた。「申し訳ありません」 透子は短く謝罪し、手元の竹べらを握り直した。 現在は、洗浄したページの破れや虫食い穴を塞ぐ、「喰い裂き」と呼ばれる補修作業の最中だ。 極薄の典具帖紙に水を引いて手でちぎり、繊維を毛羽立たせたものを、傷口に合わせて移植していく。紙の繊維同士を絡ませ、傷をなかったことにする緻密な外科手術。 だが、透子の指先は微かに震えていた。 それはアランの視線が痛いからではない。 彼が、触れてくれないからだ。 あの日以来、アランは透子を寝室に呼ばなくなった。夜ごとの「教育」も、肌を合わせる食事も、すべてが唐突に遮断された。 彼は透子の半径二メートル以内に近づこうとしない。 まるで、透子が汚染源であるかのように。ある
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第七章 暗号の栞
 その夜、ロワールの森は轟音に包まれていた。 大西洋から流れ込んだ低気圧が猛烈な嵐となり、古城を根こそぎ揺さぶっている。 窓ガラスを叩く雨は、もはや液体ではなく無数の礫のようだった。時折、闇を切り裂く稲妻が、アトリエの無機質な空間を一瞬だけ青白く照らし出し、すぐにまた深い影の底へと沈める。 透子は自室には戻っていなかった。アランからの「部屋で待機せよ」という命令は、もはや彼女にとって守るべき規律ではなく、破るために存在する薄い膜でしかなかった。 地下アトリエの作業台。 無影灯の白い光の下で、透子は顕微鏡を覗き込んでいた。 目の前には、背表紙を剥がされ、背骨を露わにした『マルキ・ド・サドの祈祷書』が横たわっている。 透子はピンセットを手に、本の背にこびりついた古い膠と、補強用の芯紙を慎重に除去していた。 通常、十八世紀の製本において、背の補強には反故紙や書き損じの手紙が再利用されることが多い。修復師にとって、そこは歴史の堆積物が眠るタイムカプセルであり、過去の職人の息遣いが聞こえる場所だ。 だが、今夜透子が探しているのは、歴史的遺物ではない。 アラン・ド・ヴァルモンという男の、隠された意図だ。 昼間、彼が落とした一滴の血。その味が、透子の舌の上でまだ鉄錆のように燻っている。彼の身体が発していた、死にゆく星のような崩壊の熱。 ――彼は何かを遺しているはずだ。 あの用意周到で、傲慢な支配者が、ただ黙って消え去るわけがない。彼は必ず、自分の不在を埋めるための「楔」をどこかに打ち込んでいる。 作業を進める透子の指先が、不意に止まった。 違和感。 何層にも重ねられた補強紙の最深部、本の中身と背表紙が接するギリギリの場所に貼られた一枚の紙片。 その質感だけが、周囲の十八世紀の紙とは決定的に異なっていた。 指の腹で撫でる。 微かなざらつきと、湿り気を吸い込むような弾力。これは当時の手漉き紙ではない。現代の最高級コットンペーパーだ。 透子は息を呑み、その紙片にメスを入れた。 癒着した部分を傷つけないよう、皮膚移植の手術
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第八章 停電の檻
 光を失った世界には、質量があった。 城内のすべての照明が落ちた回廊は、たんなる暗闇ではなく、黒い羊水のような粘度の高い液体で満たされているようだった。 窓の外で炸裂する雷光だけが、数秒おきに世界を暴き出す。その青白いフラッシュの中で、長い廊下の彫像たちが、苦悶の表情を浮かべて浮かび上がっては、また虚無の底へと沈んでいく。 透子は走った。 ハイヒールはとうに脱ぎ捨てていた。裸足の裏が冷たい石の床を蹴るたびに、氷のような冷気が脚を伝って心臓まで駆け上がる。だが、その冷たさが逆に、透子の内側で燃え盛る激情の炎を煽り立てていた。 アランはどこにいる。 書斎の扉を開け放つ。いない。 主寝室のベッドには、誰も寝た形跡がない。 透子の直感が、背筋を焦がすような確信となって方角を示した。 北塔。 この城で最も古く、最も高く、そして最も孤独な場所。彼だけが使うことを許された、旧式のエレベーターがある場所だ。 彼は逃げようとしたのではないか。地を這う獣のように無様な死に様を晒すくらいなら、天に近い場所で、あるいは昇降する鉄の箱の中で、誰にも知られずに息絶えることを選んだのではないか。 そんな美学は認めない。 そんな綺麗な結末なんて、私が破り捨ててやる。 透子はドレスの裾を翻し、北塔への渡り廊下を疾走した。呼吸は乱れ、喉の奥から血の味がした。それは自身の血の味であり、同時に、幻覚のように漂うアランの血の味でもあった。 北塔のエレベーターホールに辿り着いたとき、そこは墓所のような静寂に包まれていた。 真鍮で装飾された重厚な扉は、硬く閉ざされている。階数表示のアナログな針は、動力を失って停止している。 だが、透子の鋭敏な感覚は捉えていた。 扉の隙間から漏れ出す、微かな、しかし決定的な「死」の匂いを。 雨の匂いにも、古い石の匂いにも消されない、鉄錆と甘い腐敗が混じった生温かい香り。 そして、耳を澄ませば聞こえてくる、湿った布が擦れるような音。 ゴホッ、ゴホッ……。 地底から響くような、弱々しい咳
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第九章 魂の製本
 季節は巡り、ロワール渓谷が最も濃密な生命力に覆われる初夏が訪れていた。 城を取り囲む森は、新緑というよりは深緑の海となり、窓から差し込む光さえもが緑色に染まっている。 しかし、地下のアトリエには季節はない。あるのは、一定に保たれた湿度と、数世紀前の空気が澱んだような静謐さだけだ。 だが、その静けさは以前のような張り詰めた冷たさではなかった。 そこは今、互いの呼吸のリズム、体温の揺らぎ、そして魂の形を知り尽くした共犯者たちだけが共有できる、羊水のように温かく、甘い安らぎの空間へと変貌していた。 透子は、作業台に向かっていた。 彼女の眼前には、三ヶ月に及ぶ修復作業を終えた『マルキ・ド・サドの祈祷書』が鎮座している。 かつてカビに侵され、背骨を砕かれていた瀕死の書物は、いまや透子の手によって完全に蘇生していた。 表紙は、深紅のモロッコ革で新調されている。それは凝固する直前の鮮血の色であり、あるいは興奮して充血した粘膜の色でもあった。元のボロボロだった革は、本の見返し部分に「記憶」として移植され、新しい皮膚の内側で静かに呼吸している。 残る工程はあと一つ。 画竜点睛。「箔押し」である。 透子はアルコールランプに火を灯した。 青白い炎が揺らめき、その先端が舐めるように真鍮製の鏝、フィロンを炙る。 チリチリ、と微かな音がする。金属が熱を孕んでいく音だ。 熱せられた金属特有の鋭い匂いと、革のタンパク質の匂い、そして接着剤として塗られた卵白の生臭さが混じり合い、アトリエの空気を官能的に引き締める。 それは、何かを決定的に変質させるための、儀式の匂いだった。「いい手つきだ」 背後から、アランの声がした。 以前よりも少し掠れているが、その分だけ深みを増し、耳の奥に心地よく沈殿する声。 彼は部屋の隅の革張り椅子に座り、膝に薄いブランケットを掛けていた。顔色はまだ陶器のように蒼白だが、その瞳には虚無の濁りはなく、透き通った灰色の光を湛えている。それは、死の淵を覗き込み、そこから生還した者だけが持つ、静かで強靭な光だった。「&h
last updateLast Updated : 2025-12-18
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第十章 永遠の書架
 すべての工程は終了した。 地下アトリエの作業台の上には、一冊の書物が鎮座している。 かつてはカビに侵され、関節を外された死体のように無惨だった『マルキ・ド・サドの祈祷書』。それが今、透子の手によって完全な蘇生を遂げ、深紅のモロッコ革の衣を纏って輝いていた。 革の赤は、凝固する直前の動脈血の色であり、あるいは情事の後の充血した粘膜の色。 その背表紙には、透子が命を削って焼き付けた黄金のイニシャル『A.V.』が、薄暗い照明の下で鈍く、しかし決して消えることのない光を放っている。 それは修復された本であり、同時に、相沢透子という女が、アラン・ド・ヴァルモンという男に捧げた愛の聖典でもあった。「……連れて行ってあげて。彼の仲間たちの元へ」 透子は囁くように言った。 アランは無言で頷き、その本を手に取った。 彼の手つきは、新生児を抱くように慎重で、かつ王が王笏を握るように尊大だった。 二人はアトリエを出た。 長い螺旋階段を上る。地下の湿った空気から、地上の乾いた、埃っぽい匂いへと世界が変わる。 到着したのは、物語の始まりの場所――図書室だった。 天井まで届く巨大な書架。数万冊の蔵書が眠る、沈黙の神殿。 夜の帳が下りた室内には、月光だけが青白く差し込み、舞い上がる微細な塵を銀色の粉雪のように照らし出していた。 アランは迷いなく歩を進め、書架の一角、ガラス戸のついた特別な棚の前で立ち止まった。 そこは、彼が特に愛する稀覯本だけが収められた、禁断の領域。 彼はガラス戸を開き、サドの祈祷書を、その隙間へと滑り込ませた。 コトッ。 乾いた音が、広大な図書室に反響する。 それは、長い旅の終わりを告げる音であり、同時に、この本が永遠の眠りにつくための棺の蓋が閉じられた音でもあった。「終わったな」 アランがガラス戸に映る透子の顔を見つめながら言った。「契約完了だ。君は完璧な仕事をした。報酬は約束通り支払おう。……そして
last updateLast Updated : 2025-12-19
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