LOGINフランス・ロワールの森奥深くに佇む「影の城」。 古書修復師の透子が依頼されたのは、サド侯爵の祈祷書の修復と――城主アラン・ド・ヴァルモンによる「夜の教育」だった。 「この本を直すには、君の理性を解体し、感覚を剥き出しにする必要がある」 冷徹な美貌を持つアランは、透子に衣服の制限を課し、痛みと快楽の境界を曖昧にしていく。それは修復作業(ルリユール)の工程そのものだった。 解体される理性。洗浄される過去。そして刻印される愛。 だが、透子は気づいてしまう。完璧な支配者である彼の肉体が、密かに崩壊しつつあることを。
View More世界は、分厚い雨の膜に包まれていた。
フランス・ロワール地方の深い森。昼下がりだというのに、空は古い羊皮紙のように黄ばんでくすんでいる。「到着いたしました、マドモアゼル・アイザワ」
運転席の老人が、抑揚のない声で告げた。 ワイパーが雨を拭うたび、視界の先にその異形が浮かび上がった。 「重厚なオークの扉が、油の切れた蝶番の悲鳴を上げて開く。
エントランスホールは、時間の止まった空間だった。 床は黒と白の大理石で市松模様を描き、高い天井からは巨大なシャンデリアが、獲物を待つ蜘蛛の巣のようにぶら下がっている。 「お待ちしておりました。通された図書室は、透子がこれまでに見たどの図書館よりも圧倒的で、そして背徳的だった。
四方の壁を天井まで埋め尽くす書架。そこには、数千、いや数万冊の革装本が眠っている。 古い紙の匂い。獣の皮をなめした革の匂い。「ようこそ、遠い東の国から来た
男が立ち上がり、ゆっくりと近づいてくる。
声。 それは聴覚を刺激する空気の振動というよりは、直接骨伝導で脳幹を愛撫するような、低く、湿度を含んだバリトンだった。 アラン・ド・ヴァルモン。この城の主であり、欧州の裏経済を動かす投資家とも、稀代のサディストとも噂される男。 近づくにつれ、彼の「ご依頼の品を見せてください」
透子は平静を装い、話題を変えた。 アランはデスクの上にあった一冊の本を手に取り、透子に差し出した。 それは、見るも無惨な状態だった。 十八世紀のものと思われる総革装。だが、表紙の革はひび割れてめくれ上がり、背表紙は砕け、ページは湿気とカビで癒着して一塊の石のようになっている。 まるで、激しい拷問を受けて息絶えた肉体のようだった。 「マルキ・ド・サドの未発表手稿を含む、特注の祈祷書だ」 アランが囁く。 「かつて、ある修道女が隠し持っていたものだと言われている。昼は神に祈り、夜はその祈りの言葉で自らを慰め、冒涜的な悦楽に耽った……。信仰と背徳が、一冊の中で交尾している本だ」 透子は白い手袋をはめ、慎重に本に触れた。 専門家としての目が、瞬時に損傷レベルを分析する。アランは胸ポケットから万年筆を取り出し、キャップを外して透子の唇に押し当てた。
硬いペン先が、柔らかい唇を割り入る。 鉄の味。インクの苦み。 「サインを。それとも、逃げ帰るか? 安全で退屈な、紙屑のような日常へ。誰も君の本当の中身を読もうとはしない、孤独な世界へ」 透子は震える手で万年筆を受け取った。 その軸は黒く艶めき、ずしりと重かった。それはまるで男根のメタファーのようであり、同時に権力の象徴でもあった。 彼女は契約書に視線を落とした。そこには目が眩むような報酬額が記されている。だが、今の彼女にとって、金など紙切れ同然だった。 彼女が求めていたのは、この「檻」だった。 自分を縛り付け、責任という重荷から解放し、ただ感覚だけの存在へと堕としてくれる、甘美な地獄。 ペン先が紙を走る。 サラサラと音を立てて、透子の名前が刻まれていく。インクが紙の繊維に染み込んでいく様は、まるで白いシーツに散った処女の血痕のようだった。 「……契約、成立だ」 アランが口元を歪めた。 それは慈愛に満ちた微笑みというよりは、罠にかかった獲物を愛でる捕食者の、残酷な安堵に似ていた。 彼は透子の手から万年筆を抜き取ると、彼女の耳元に唇を寄せた。 「ようこそ、私の実験室へ。透子」 名前を呼ばれた瞬間、透子の世界は閉じた。 いや、開かれたのだ。 重厚な扉が閉ざされる音とともに、理性という名の安全装置が外され、深い闇への落下が始まった。 窓の外では、雨が激しさを増していた。 その雨音は、もう拒絶の音ではなかった。これから始まる秘密の儀式を、外界から隠蔽するためのカーテンの音だった。それから幾つの季節が巡ったのだろうか。 時間の概念は、このシャトー・ド・オンブルにおいては、外界のそれとは異なる速度で流れている。時計の針が刻む客観的な時間ではなく、互いの脈拍と呼吸によって計測される、主観的で濃密な時間。 確かなことは、かつて城を支配していた死の冷気と、あのむせ返るような百合の腐敗臭が消え失せたということだ。 代わりに今、高い天井の回廊を満たしているのは、乾燥した古書のインクの匂い、磨き込まれた床ワックスの香り、そして厨房から漂ってくる焼き立てのパンと、甘く煮詰められた果実のコンポートの香りだった。 それは「生活」という名の、温かく、少しだけ埃っぽい匂いだ。 透子は、この城の女主人として――いや、もっと正確に言えば、この城という巨大な書物の共同執筆者として、今もここで暮らしている。 日本へ帰るためのチケットはとうに期限切れとなり、パリの工房も閉じた。 彼女が帰るべき場所は、地図上のどこかではなく、一人の男の腕の中にしかなかったからだ。 初夏の陽光が降り注ぐサンルーム。 大きな窓辺に置かれた長椅子で、アラン・ド・ヴァルモンが微睡んでいる。 膝の上には、読みかけの古い詩集が開かれたまま乗っている。風がページを捲り、乾いた音を立てるが、彼は目を覚まさない。 透子は部屋の入り口で足を止め、その寝顔を静かに見守った。 長い睫毛が落とす影。薄い皮膚の下で透けて見える青い血管。 彼の病は、奇跡的に完治したわけではない。 ヴァルモン家の血に巣食う呪いは、依然として彼の骨髄の中で眠っている。時折、発作が彼を襲い、そのたびに死神が黒いマントを翻して扉を叩く。 だが、そのたびに透子は彼を現世へと引き戻す。 薬や医療器具によってではない。 栄養価の高い食事と、十分な睡眠、そして毎夜繰り返される濃密な性愛の儀式によって。 透子は確信している。 愛とは、プラトニックな精神論ではない。それは、きわめて物理的で、生理学的な現象だ。 皮膚と皮膚が擦れ合う摩擦熱が、冷えた彼の体温を上げる。 交わされる唾液や体液が、枯渇しかけ
すべての工程は終了した。 地下アトリエの作業台の上には、一冊の書物が鎮座している。 かつてはカビに侵され、関節を外された死体のように無惨だった『マルキ・ド・サドの祈祷書』。それが今、透子の手によって完全な蘇生を遂げ、深紅のモロッコ革の衣を纏って輝いていた。 革の赤は、凝固する直前の動脈血の色であり、あるいは情事の後の充血した粘膜の色。 その背表紙には、透子が命を削って焼き付けた黄金のイニシャル『A.V.』が、薄暗い照明の下で鈍く、しかし決して消えることのない光を放っている。 それは修復された本であり、同時に、相沢透子という女が、アラン・ド・ヴァルモンという男に捧げた愛の聖典でもあった。「……連れて行ってあげて。彼の仲間たちの元へ」 透子は囁くように言った。 アランは無言で頷き、その本を手に取った。 彼の手つきは、新生児を抱くように慎重で、かつ王が王笏を握るように尊大だった。 二人はアトリエを出た。 長い螺旋階段を上る。地下の湿った空気から、地上の乾いた、埃っぽい匂いへと世界が変わる。 到着したのは、物語の始まりの場所――図書室だった。 天井まで届く巨大な書架。数万冊の蔵書が眠る、沈黙の神殿。 夜の帳が下りた室内には、月光だけが青白く差し込み、舞い上がる微細な塵を銀色の粉雪のように照らし出していた。 アランは迷いなく歩を進め、書架の一角、ガラス戸のついた特別な棚の前で立ち止まった。 そこは、彼が特に愛する稀覯本だけが収められた、禁断の領域。 彼はガラス戸を開き、サドの祈祷書を、その隙間へと滑り込ませた。 コトッ。 乾いた音が、広大な図書室に反響する。 それは、長い旅の終わりを告げる音であり、同時に、この本が永遠の眠りにつくための棺の蓋が閉じられた音でもあった。「終わったな」 アランがガラス戸に映る透子の顔を見つめながら言った。「契約完了だ。君は完璧な仕事をした。報酬は約束通り支払おう。……そして
季節は巡り、ロワール渓谷が最も濃密な生命力に覆われる初夏が訪れていた。 城を取り囲む森は、新緑というよりは深緑の海となり、窓から差し込む光さえもが緑色に染まっている。 しかし、地下のアトリエには季節はない。あるのは、一定に保たれた湿度と、数世紀前の空気が澱んだような静謐さだけだ。 だが、その静けさは以前のような張り詰めた冷たさではなかった。 そこは今、互いの呼吸のリズム、体温の揺らぎ、そして魂の形を知り尽くした共犯者たちだけが共有できる、羊水のように温かく、甘い安らぎの空間へと変貌していた。 透子は、作業台に向かっていた。 彼女の眼前には、三ヶ月に及ぶ修復作業を終えた『マルキ・ド・サドの祈祷書』が鎮座している。 かつてカビに侵され、背骨を砕かれていた瀕死の書物は、いまや透子の手によって完全に蘇生していた。 表紙は、深紅のモロッコ革で新調されている。それは凝固する直前の鮮血の色であり、あるいは興奮して充血した粘膜の色でもあった。元のボロボロだった革は、本の見返し部分に「記憶」として移植され、新しい皮膚の内側で静かに呼吸している。 残る工程はあと一つ。 画竜点睛。「箔押し」である。 透子はアルコールランプに火を灯した。 青白い炎が揺らめき、その先端が舐めるように真鍮製の鏝、フィロンを炙る。 チリチリ、と微かな音がする。金属が熱を孕んでいく音だ。 熱せられた金属特有の鋭い匂いと、革のタンパク質の匂い、そして接着剤として塗られた卵白の生臭さが混じり合い、アトリエの空気を官能的に引き締める。 それは、何かを決定的に変質させるための、儀式の匂いだった。「いい手つきだ」 背後から、アランの声がした。 以前よりも少し掠れているが、その分だけ深みを増し、耳の奥に心地よく沈殿する声。 彼は部屋の隅の革張り椅子に座り、膝に薄いブランケットを掛けていた。顔色はまだ陶器のように蒼白だが、その瞳には虚無の濁りはなく、透き通った灰色の光を湛えている。それは、死の淵を覗き込み、そこから生還した者だけが持つ、静かで強靭な光だった。「&h
光を失った世界には、質量があった。 城内のすべての照明が落ちた回廊は、たんなる暗闇ではなく、黒い羊水のような粘度の高い液体で満たされているようだった。 窓の外で炸裂する雷光だけが、数秒おきに世界を暴き出す。その青白いフラッシュの中で、長い廊下の彫像たちが、苦悶の表情を浮かべて浮かび上がっては、また虚無の底へと沈んでいく。 透子は走った。 ハイヒールはとうに脱ぎ捨てていた。裸足の裏が冷たい石の床を蹴るたびに、氷のような冷気が脚を伝って心臓まで駆け上がる。だが、その冷たさが逆に、透子の内側で燃え盛る激情の炎を煽り立てていた。 アランはどこにいる。 書斎の扉を開け放つ。いない。 主寝室のベッドには、誰も寝た形跡がない。 透子の直感が、背筋を焦がすような確信となって方角を示した。 北塔。 この城で最も古く、最も高く、そして最も孤独な場所。彼だけが使うことを許された、旧式のエレベーターがある場所だ。 彼は逃げようとしたのではないか。地を這う獣のように無様な死に様を晒すくらいなら、天に近い場所で、あるいは昇降する鉄の箱の中で、誰にも知られずに息絶えることを選んだのではないか。 そんな美学は認めない。 そんな綺麗な結末なんて、私が破り捨ててやる。 透子はドレスの裾を翻し、北塔への渡り廊下を疾走した。呼吸は乱れ、喉の奥から血の味がした。それは自身の血の味であり、同時に、幻覚のように漂うアランの血の味でもあった。 北塔のエレベーターホールに辿り着いたとき、そこは墓所のような静寂に包まれていた。 真鍮で装飾された重厚な扉は、硬く閉ざされている。階数表示のアナログな針は、動力を失って停止している。 だが、透子の鋭敏な感覚は捉えていた。 扉の隙間から漏れ出す、微かな、しかし決定的な「死」の匂いを。 雨の匂いにも、古い石の匂いにも消されない、鉄錆と甘い腐敗が混じった生温かい香り。 そして、耳を澄ませば聞こえてくる、湿った布が擦れるような音。 ゴホッ、ゴホッ……。 地底から響くような、弱々しい咳